飯島惠子さん(NPO法人ゆいの里 代表)地域の“もったいない力”を活かして。互いにささえ合うまちに Vol.1「デイホームホットスペースゆい」


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地域の人たちが、互いにゆるやかにささえ合う「場」をどうやってつくるのか? 栃木県那須塩原市にある、NPO法人ゆいの里代表の飯島惠子さんは、この問いに対し、平成8年よりソーシャルワークを積み重ねてきた。「ゆいの里」の母体ともいえる、「デイホームホットスペースゆい」と「街中サロン なじみ庵」の取材を通じてゆいの里の実践を探り、「地域」とはいったい何なのか?を考えたい。

ここではすべてが自然体

JR西那須野駅から徒歩5分、閑静な住宅街に「デイホーム ホットスペースゆい」はある。2階建ての民家で、玄関先には野良猫が気持ちよさそうに寝そべっている。中では6人ほどの高齢者が食器拭きを手伝ったり、スタッフの孫とじゃんけんを楽しんだり…。その足元では老犬のゆいがちょこちょこと歩き回っている。ここではすべてが自然体。日常生活がゆったりと営まれ、まるで自宅にいるかのような穏やかな時がゆっくりと流れる。

 

「ほっとすっぺ」には、ケアする人、される人はいない

─皆さん、とても明るく楽しそうな表情をされていますね。

ありがとうございます。ここは「デイホームホットスペースゆい」という名前の小規模通所介護です。ホットスペースの語源は、栃木の言葉の「ほっとすっぺ」。「ほっとする」「安心する」の意と、ここら辺ではよく使われる「●●すっぺ」という言葉をかけているのです。

 

マザーテレサの言葉に、「愛の反対は無関心」というのがあります。誰も私を見てくれない、求めてくれない、居場所がない。それはとてもつらく、安心できないものです。

 

今日利用している方で、6年前から要介護5と認定されている90歳の女性を例にあげてみましょう。要介護5というと寝たきりのイメージになるのですが、朝、家族が愛を持って彼女をえぃっと起こすから寝たきりにならず、デイホームにやって来ます。

デイホームの時間にできることは、水分摂取、口腔ケアとお下の清潔、これだけで、熱を出すことが少なくなります。そして、この方の「食べる」という意欲をささえます。椅子にしっかり座っていただく工夫をして、普通食をほぐしたりすりぶしたりと様子を見ながらの食事をゆっくりと時間をかけて、召し上がります。もぐもぐして納得したらゴックン、口を空かないときは理強いせず、時には入れ歯に挟まった残渣を本人が舌で取るのを待って、少しずつ召し上がっていきます。家族の思いにこたえて、残された力と強い意志を発揮して今日を生きていらっしゃいます。

 

また、混合型認知症と診断され、ピック病特有の症状を示す方も60代から毎日通って来ています。以前は行動の抑制がきかず、盗みや女性に触る、遠くに行ってしまうなど、警察に何度も保護されたり、逮捕されたこともありましたが、ここに通い始めて6年目、安心できる居場所に毎日通う中で、ご自身が学習されて、勝手な外出や暴言暴力がほとんど無くなり、今はずいぶん落ち着かれてきて、要介護も4から3になっています。

ご家族の気持ちや介護も経験を重ねる中で変化してきました。

※デイホームホットスペースゆい

─利用者の方一人ひとりが自分なりの役割を果たしていらっしゃるのですね。

自宅にいれば、掃除や食事の支度など、やることはたくさんあります。興味関心のないアクティビティをわざわざしなくても、自宅にいるときと同じように、生活を送るようにすれば、どんな人でもできることや役割があります。

もちろんしっかりアセスメントをしたうえでのことですが…。

包丁で野菜を切っていただいたり、縫いものをしていただいたりします。これまでに一度も台所仕事をしたことがないという元教師の男性が自ら、焼きそば作りに参加したり、率先してすり鉢でゴマをすってくださいます。

「ゆいの里と出合って良かった。私の人生が変わった」と先日の要介護更新認定で調査員に言ったそうです。

 

生きている限り、私たちは、それぞれに何らかの「力」をもっています。それを活かさないなんて、実にもったいない! その“もったいない力”残存能力という言葉より、自己資源を活かす、引き出す支援が大切なケア、その人らしい生き方につながっていくと思います。

 

─スタッフは、とても自然に利用者さんと接していますね。

スタッフたちは、ケアをしている、お世話をしているという一方的な意識はおそらくもっていないと思います。なぜならば、ここでは「ケアする人、される人」という一方向の関係だけではないからです。

ある女性のすばらしい運針ぶりを見たスタッフたちは、「手品みたい!」ともうビックリ。ケアマネジャーのアセスメントからその方は、昔、東京の有名デパートで着物を縫う仕事をしていたことがわかりました。

 

ケアの基本にあるのは与える、してあげるのではなく、専門職として、その人の持つ自己資源を引き出して、ささえる自立支援介護。おむつ交換は後始末、要介護5の方も介助で立ち上り、便座に座ります。

 

白菜の正しい切り方も知らなかった若いスタッフは、料理上手なお年寄りたちから調理の基礎から美味しい天ぷらの揚げ方まで習って、結婚。「皆さんのお蔭で花嫁修業ができました」と喜んでいます(笑)。ゆいの里は、利用者とスタッフと大きな家族のようです。

※なごやかな時間が流れるデイの1日

個性を無視したような高齢者福祉の現場で違和感と疑問

─飯島さんが高齢者福祉と関わるようになったきっかけは何ですか?

結婚した翌年に義父が心臓のバイパス手術をし、ほどなくパーキンソン症候群を発症、最終的にはレビー小体型認知症になりました。私はそれまで保育士として勤めていた保育園を辞め、介護する嫁となって病院に行くことが増えました。介護施設を体験する機会も持ちました。

高齢者福祉の現場を見て、体験して、知れば知るほど、イメージしていたものとはあまりにも違うので驚きました。

 

保育園では、一人ひとりの個性を大切に活かすという幼児教育をしていたので、当然、福祉とはそういうことだろうと思っていたのです。ところが実際に高齢者施設では、入所している人たちが同じような髪形にカットされていり、おむつ交換に便利な衣服を着せられたりと、“個”ではなく集団としての扱い、入所者一人ひとりよりも、施設や職員の都合が優先されているように感じました。

もっと高齢者福祉のことを知りたいと思い、介護福祉士の資格をとって高齢者施設で働き始めました。

 

─施設で働いてどう感じられたのですか。

ある入所者が「自分は人のお世話になるばかりで、生きていても仕方がない。早くお迎えに来てほしい」と言うのです。その言葉を聞いたとき、やりきれない気持ちになりました。

何十年も頑張って生きてきた人にそう言わせてしまう福祉ってなんだろう?もし這ってでもわが家にいられたら、こんなことにならなかったんじゃないのか、と思ったのです。中間施設と言われる老人保健施設の立ち上げも2ヵ所経験させていただきましたが、家に帰れない、他に居場所のない高齢者の皆さんに出会うのはつらいことでした。

 

そんなとき、私は夢を見ました。

スタッフが「やれやれ、飯島ばあさんに薬を与えて車いすに拘束したら、やっとおとなしくなったわい」と言っているのです。それを聞いた私は怒って車いすごとひっくり返ります。

そこで夢から覚めたのですが、自分を置き換えるとわがままな私は、こういう自由のない人生の最期の暮らしは耐えられないと感じたし、大規模施設不適応職員であると自覚した私は、「ああ、これ以上、私はここにはいられない」と精神的にも限界で退職しました。自分がかかわらせていただいた入所者を残して、逃げていく自分がとても情けなくて、悲しみと行き場のない怒りのエネルギーが残りました。

 

地域の中に、安心な居場所をつくりたい!

─1996(平成8)年に、ゆいの里の活動が始まったんですね。その内容について教えてください。

思いを共有する仲間たちとともに、子どもからお年寄りまで、地域のさまざまな人たちが集まれる居場所をつくりたいと思い、「デイホームをつくろう会in 西那須野ゆいの里」の活動を始めました。

 

“ゆい”といえば、沖縄の「ゆいまーる」がよく知られていますが、この地域でも以前はゆいが機能していました。お年寄りたちが「昔からオレたちは“ゆい”で互いに助け合ってきたんだ」と言っていたのを聞いて、会の名前を?ゆいの里“と付けました。その助け合いを形にしていこうと、学習会やボランティア活動、介護福祉の研修会、映画自主上映会などを地域に向けて開催しました。

1996年の夏、思い切ってスウェーデンひとり旅に出かけました。このときに体験したことも私の活動の基になっています。

 

─活動の目的であるデイホームが2年後の1998(平成10)年に実現しますね。

まちの真ん中の平屋で18坪の一軒家を借りて、「デイホームホットスペースゆい」を開所しました。介護保険前、障害者の制度も整備されないころ、まちの中の居場所には、いろんな人が集いました。

不登校の子どもが認知症の高齢者の将棋の相手をしたり、介護する母親が一時も離れられなかった重度心身障害児のお預かりや養護学校(現特別支援学校)の子どもたちの放課後のレスパイト、地域に暮らす障害者や外国人など、みんなで食事をつくり、スーパーに買い物に行き、散歩しながら図書館に通う‥などと、まちの中のみんなの居場所はいろんな人がまじわって、とても家庭的な雰囲気でした。

デイホーム事業(小規模民間デイ)のほかに、ホームヘルプサービス、福祉外出支援サービス、福祉相談事業、地域福祉活性化事業などを自主事業として行いました。

 

─介護保険制度がスタートする年に、ゆいの里はNPO法人となりました。

それまでは、利用者から午前1,000円、午後1,000円の実費をいただいていましたが、介護保険制度を使えば、ご利用者の負担が自主事業よりもっと軽くなるので、介護保険事業者になろうと話し合いました。それまでの実績があれば基準該当として事業者になることを認める制度と地域もあったのですが、この町では法人格を持つことが事業者の条件と言われて、あわててNPO法人の設立準備会を招集し、平成20年3月にNPO法人格を取得し、4月の介護保険スタートと同時に、通所介護(小規模デイ定員6人)と居宅介護支援事業所となりました。

そのころには、不登校の子どもたちは適応指導教室、障害児・者は支援費制度が動き出して、それぞれに行き場所ができて、気づくと認知症の高齢者だけが残っていました。

 

毎日でもデイホームで受け入れないと、在宅での生活が維持できない方がいるので、当初は、介護保険の限度額を超えた分については10割の自己負担ではなく、従来からの自主事業のデイホーム事業で対応していましたが、同じスペース、同じ職員が同じサービスを提供して、費用の格差があるのは、不公平になるという行政からの指導があり、デイホームの自主事業は断念せざるを得ませんでした。

認知症独居の方の急変や混乱時のお泊りも必要に応じ、自主事業で行っていましたが、実地指導で指摘されて同じく中止となりました。

小規模多機能でささえる顔の見える居場所は、新たに制度になった「小規模多機能型居宅介護」の事業所になることで行ってくださいと言われました。

 

わがまちの地域密着型の公募は、小規模多機能型居宅介護+グループホームを併設するもので、個室が18もある空き家は存在せず、かといって、更地を購入して新築するようなお金も気概もないので、細々と小規模デイを続けながら、在宅支援事業(介護保険枠外)や移送サービス(福祉有償移送サービス)を継続してきました。

 

その前に、18坪の借家が手狭となり、風呂も壊れてしまったので、「デイホームホットスペースゆい」は2001(平成13)年に引っ越しをしました。そこがここまでのゆいの里の拠点となり、通所介護の定員は6人から10人に増えました。

※連絡帳。カバーには利用者の方が染めた紙を使っている

つづく

<事業所プロフィール>
NPO法人ゆいの里

ゆいの里の「ゆい」は、ゆい返し ゆぇっこ、田植え、稲刈り、道普請・・・などといった、昔から何気なくあった、地域の中のお互い様。助けられたり、助けたり 支えられたり、支えたりを意味している。助け上手は、助けられ上手。まちの中でゆいを形にした、居場所つくりのために、1996年(平成8年)ゆいの里はスタートした。ゆいの里は、「障がいや認知症があっても、その人らしく暮らせる場を」と、町中の民家を利用した小規模で家庭的な個別ケアの「デイホームホットスペースゆい」(小規模通所介護・1988年開所)と、地域の高齢者のみなさんが持っている“もったいない力”や地域の社会資源を活かし、町中の空店舗を活用した街中サロン“なじみ庵”(2005年開所)の運営を行っている。

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